のっぺらぼうの人たち|自分に軸が無い人たち。

Captain Seina

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昔。若い頃。21歳くらいの時からずっと疑問に思う事がある。

「人」は、どうして、「1対1」の時と、「1対複数」の時には、「1から複数」に含まれる「人」「相手」は、変わる、違うんだろうって。

今はその答えは解ってる。だから、そういう「人たち」の空間や関係からは離れる。そういう人たちって、のっぺらぼうみたいに、顔が無いの。だから、とっても怖いの。

でも、「1」になると、輪郭が見えてくる。

近年、この10年位で気付いたのは、「自分」に軸がある人と、「外」に軸がある人がいて、もう、そういう人も解るから、「外」に軸がある人とはあまり付き合わない。そういう人は輪郭が無いし、その人、「個人」を信用することは出来ない。だって、「外」や「他人」、「集団」、とかで、その人の言葉や態度、基準が変わるから。

今は、ひとりで、静かに、こんな暮らしをしていると、そういう「人たち」と関わる事も少ない。どうしてこんな暮らしが出来るのかというと、「孤独」が好きで、それをよいものと思っているからだと思う。その為には、孤独で居る事が平気にならないといけない。

「孤独」の場合、よりどころは自分の中しかなく、自分との付き合いとか向き合いが、最も大切な事になるんだと思う。そうやって、徐々に自分の中に軸を持てるのだと思う。

生きるって、まぁ、いろいろ、面倒だし、大変ね。
でも、それが、生きるってことで、面倒だし、大変な事こそ、経験する事で、生きる筋力や知恵が身に着くとも思う。

外国と言ってもいろいろあるし、いろいろそれぞれ、コミュニティや関係の在り方は違うと思うけど、日本は「自分」に軸が無い人が多いと思う。それの方が当たり前なんだと思う。それが日本の当たり前の社会なんだと思う。でも、それだと、自分が壊れてしまったり、苦しくなる。

何がいいとか、悪いとかじゃなく、そんな社会なんだと思う。だから、その中で、自分を壊さないで、生きていく、暮らせるように、うまくやろうと、引きこもって静かに暮らす。

ここは、潮の流れが速いから避けた方がいいね、とか。
風が強いから、とか。
ここには、川があるから回り道をするとか。大雨の時は気を付けるとか。

そんなことな気がする。

そういえば、村上龍さんの本を読んでたら「いじめ」という単語が何回も出てきた。
のっぺらぼうの人たちは、空気でいじめをしたりする。そして、多分、いじめた事すら忘れてしまう。私をいじめた、教室の床で蹴った人たちは、そうだったと思う。

「空気」

それでいいんだと思う。
のっぺらぼうの人たちは、自分でも顔とか輪郭が解らなくなってたりするから。

のっぺらぼうの人たちは、きれいに化粧したりで、ほんとの顔、素顔が解らなかったりもする。ギャップが大きかったりもする。私も、のっぺらぼうだと気づかない事もある。

きっとそういう人たちは、本当の自分が好きじゃなかったり、ほんとの自分が解らなかったりとかもするのかもしれない。

嫌だなぁって思っても、それは、私の問題ではなく、私が嫌だと思っているだけのことで、だったら、ただ、避ければいい。

のっぺらぼうの人たちは、自分がのっぺらぼうだと気づいてない場合が多いと思う。それをどうにかする事はすごく大変だから、だったら、避ければいい。

自分の中に軸を持って、孤独が平気になったら、そういう人の見分けがつくようになるから、避ける事が出来るようになる。

そうしたら、完全に孤立してしまうのかというと、そうでもなく、「個」の意識のある、自分に軸のある人と、尊重し合った関係を持てると思う。

そうだね、書きながら思ったけど、のっぺらぼうの人たちは、誰かや、何かの集団とかに、依存する事とか、他者からの承認とかで、比較的不安が無く生きられるのかもしれないね。

だからさ、承認欲求、とか、支配感とかきついな、って感じたら、避ける。

あ、でもさ、この支配感が強い人と、自分が無い系のっぺらぼうは、需要と供給が合うんだよ。

なんか、終りそうになくなってきたから、この辺で終わろう。

今日の写真はね、梅が咲き始めたよ、の写真です。