先日友達がコーヒーの生豆を取りに来た。九州までの送料が高いので一緒に買ったりしてる。うちに来るモノレール代を考えるとどうかと思うが、世の中が合理的に、便利になりすぎると人にも会わなくてよくなる。こうやって会う理由を持つのも悪くない。
彼とは30数年。いやぁ。長い。私より10歳くらい年上なので、還暦を回ってしまっている。
なんで長く続いているのかというと、とにもかくにも、彼が人間的に大人で、昔から人を偉そうにジャッジすることが無いのも大きな理由だと思う。
「しょーこ。ワクチン終わったね?」
「いいや、まだ。今度の20日だ」
温厚な彼が、ワクチンがどうとか色々言っている若者が多いと。なんでだろうね、と。微妙にぼやく。
「なんだろね。なんか、みんな文句とか色々言うよね。、ワクチンが悪とか、何が正しいとか偉そうに言わないで、打たないなら打たないでいいから、外出せずに家にいてくれればいいんだよ」
ワクチンが悪とか、善とかどうでもよくて、今は、そんな世界で、そんな時代なんだよ。その中に生きているだけ。悪だろうが、善だろうが、時代の中で多少のリスクを抱えても、みんなで協力し合わないと、感染症問題はいつまで終わらないのだとも思う。協力し合っても、変異と人々の移動でなかなか終わらないと思う。困った時代だ。
でもさ、これも、こんな「時代」というだけで、いつの時代も、なんやらかんやらあって「あの時代」「その時代」となるんだと思う。
ふと、そもそも、文句ばっかり言う人たち、というのは、きっと、幸せじゃないのだろう、と思う。
近年は、ネット上にたくさんの、たくさんの、批評家、ご意見番、みたいな人たちが、すんごくいっぱいいる。
ヤフーニュースのコメント欄やアマゾンの商品レビュー、Youtubeのコメントを見ると、ほんとたくさんいるし、わざわざ書かなくていいでしょ、とか、なに様?とか、ふと思ってしまう。馬鹿じゃん、とかも。でもさ、書く人たちって、自分の無知とかに気づいてないから批判や批評を書けるのかもとも思う。
若い頃から、雑誌などなどに書いている批評家とかいう肩書の職業の人たちって、ほんと、たち悪いなぁと思ってた。で、それを見て、人々は映画や音楽を選んだりする。人々をそうさせるために書かせることもあると思う。
で、今の時代は、批評家という肩書とかじゃない人も、誰でも彼でもネット上で批評する。と、考えると、多くの人は批評がしたいのかもしれない。批評することで、自分の正しさを表現できるのかもしれない。
だけど、「正しさ」とか「正義」とかほど厄介なものはない。自分本位に「悪」を勝手に(自動に)作ってしまう。
最近さ、ほんと、いろーんな事がどうでもよくなってきて、悪とか、正しいとか、良いとか、悪いとか。それより、大事な事は、自分に対して正直に、「自分」と歩調を合わせて一歩一歩歩くことなんだけとか。そうやって一歩一歩歩いている中で、間違ったこともするだろうし、喜ばれることもするだろうし、誰かがそれを悪いとか自分勝手とかいうかもしれないし、誰かはそれをいい事とか、素敵な事だというかもしれない。場所や時代、環境でも違ってくる。だからさ、自分と一歩一歩歩調を合わせて歩くしかないなと、最近思うんだ。
自分に対して正直で、「自分」と歩調を合わせて一歩一歩歩いていると、自分の事で精いっぱいだし、自分の至らなさとか、未熟さも見えてくる。そうすると、他人の事とかを妙な正義感で批判とか、批評していることが恥ずかしくなってしまうす。
そんな風に、思うようになったのも、齢のせいかもしれません。
若いから、言えるのかもしれません。私も昔は若かった。
若いうちは、いいんです。間違っていたとか、未熟だったとか、後々気づけば、それはとても大事な「経験」でもあるんだと思うんだ。
でもさ、じじいとか、ばばあとかになってそんなこと言っている人たちはもうつける薬もないかもだし、変わる事は難しすぎるので、我慢ならないとか、嫌なら、出来れば離れましょう。
とか言っている私も、ジャッジメンタル(judgemental:批判的)な部分があったりします。なんでだろうと考えると、父親がそういう所があったと思います。で、「父親→私をジャッジ(批判や否定)」をすると、他人にも自然とそうしてしまう気がします。あと、批判や否定をされていると自尊心がボロボロになるので必死で自分を肯定させようとする(自分を正しいとする)のですが、それも他者への批判や否定につながるのかもしれません。
困ったもんです。
で、残念な事に、そういう部分は、私の中に染み付いてしまっていて、なかなか取れないんですよ。無理に取ろうとすると、良い人になろうとかしてしまうと、それも自分に対して嘘っぽく、周りに対してもとりあえず嘘というか、(いい人な)衣で隠すというか。そういうのも嫌だから、等身大の自分を見つめ、寄り添い、一歩一歩歩くしかないか、と言う感じで、日々を暮らしています。そうこうしていると、面倒だと感じる、衣を着ておかないといけないような人づきあいも減りました。最近は毎日5キロ黙々と(ノリノリですが)歩いています(ウォーキング)。
自分と一歩一歩歩く。黙々と暮らす。
そうやって自分自身と歩調を合わせて暮らしている今日この頃であります。
そもそも、自分が幸せだったら。自分の事で手いっぱい、精いっぱいだったら、他人の事とかどうでもいいと思うんだ。
でさ、前に書いたと思うんだけど、「私が私で居られる事」、誰かに否定されたり、ジャッジさることなく、自分が自分でいられることが、今の私にはとても幸せに感じるんです。
たったそれだけの事を幸せだと感じられる私は、きっとさ、誰か(特に家族)に否定されたり、ジャッジさて、苦しかったり、ストレス貯めて生きて来たんだと思う。
だからさ、もしかしたら、いろいろ正義感持って訴えている人とか、批評や批判をしている人たちも、身近な人たちに否定されたり、ジャッジされたりしてきた人だったりするかもで、そうやって自分を「正しい」と思う(考えている)事で自分を護れているのかもしれない。
でさ、その30数年来の友達。彼は人の事を滅多な事ではジャッジしない人なんだよ。思っていたとしても、言わないんだ。
だからさ、30数年付き合えているんだと思う。
感謝。