「家族は素晴らしいものという幻想」と「友達に支えられて生きている」

Captain Seina

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我孫子暮らし。徒歩だと30分ほどの隣駅に親しい友達がいる。パラグアイに居た友達。私が引越しを決めてからは忙しい中でもほぼ毎週、自転車で私を訪ねてきてくれる。

「いつでも会えると思っていたのに」と。

私が引越す日にはもちろん会うし、ご飯を食べて、私を見送るという。

ありがたいと思う。嬉しい。

自分の中に家族・肉親に受け入れられなかった、という事が私の中にどう影響しているのかと。時々考える。

それは、私の根底に確実にあって、私という人に影響を与えているとは感じる。

この歳になると、どうあがこうが、非常に無理をしない限り家族からは受け入れられることはないと、理解する。

家族は素晴らしいもの・・・。という幻想というか、理想というか、そういう風に思い込んでいると家族が難しいもので深く傷つけあう現実がとても苦しかったり、不幸だと感じる。

家族は素晴らしいものという、思い込みや幻想があるから、幸せな家族をアピールする人も多いのかもしれない。でも、ふたを開けてみると、実はいろいろ複雑だったりする人も少なくない。

家族は素晴らしいものかというと、私は解らない。でも、そこに私が経験したい、学びたい事がいろいろあったりで、私の魂が選んだことで、どんな家族のもとでも実は不幸ではなく、ただその現実の中で悩み考え、何かを学ぶ。得る。

「~してもらえなかった」と思うことはなくなった。親やきょうだいに解ってもらうとか、受け入れてもらおうとか、自分の正当性とか、どうでもよくなった。それより、得られたものへ感謝するようになった。

家族からの排除、孤立は、私に自由を与えてくれている。

私が、成人するまで、衣食住と教育を与えてくれた両親にとても感謝している。世界ではそれが当たり前じゃないと知ってからは。

「親やきょうだいに解ってもらうとか、受け入れてもらおうとか、自分の正当性とか」

これらは、もらうことばかりで、幼稚だったと、今は思う。

とはいえ、私の中に「家族は素晴らしいもの」という何かが埋め込まれてはいて、時々寂しかったり、悲しいと感じることもある。

それでも、私は元気に、結構幸せに生きている。

私の事が好で、私を受け入れてくれてる友達がいるからだと思う。ほんとうに、ありがたいと思う。

「ありがたい」と思えるのは、家族に受け入れられないという事があったから、受け入れられることが当たり前だと思っていないから「有難い」と感じられるのかもしれない。

家族との問題を持っている人は少なくないと思う。

幸せな家族。家族は素晴らしいというのは、甘い幻想のようなもので、家族との問題があることの方が実は当たり前なんじゃないかと思う。その問題、課題をどう処理するか、学ぶか、力にするのか。それが出来たとき、家族との出会いの素晴らしさのようなものに気づけるのかもしれない。感謝できるんじゃないか、とか、思う。

で、人って一人では生きていけない。人との関係性の中で生きていく。その関係とかって人として生きるために必要なもの。

受け入れられることが当たり前じゃない。

家族から受け入れられなかった事で私の根底には、ある脆さや弱さがあるんだとは感じる。それでも私は結構幸せに生きている。

ママや隣駅の友達、故郷の古くからの友達、キューバの友達。もう亡くなったジャズミュージシャンたち。そういう友達や他人たち。利害関係もなく、私の事が好きで、受け入れてくれた人たちがいるから、私はこうやって幸せに生きていられるのだと思う。

有り難い、と思う。とてもありがたいと、思う。

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余談:スピ系で知り合った人たちって、結構利害関係あるんですよ。表でいい事やきれい事言っている人たち程、結構利害関係があるんです。利害関係がない人はイイこと言う必要ないでしょ。その人との縁が切れても害がないでしょ。

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今日の写真は、近所のスーパーで買ってきたアイスの空箱。このアイス美味いんですよ。

隣駅のYちゃんが来るだろうと買っておいたの。「ショウコちゃん、あれ食べさせて」というので一本振舞って、「もう一本食べる?」と訊くと「食べる!」と。そのくらい美味いんです。