最近、ピアノを弾いてみてる。(電子ピアノ)
PCに繋いでいた小型ボーカルアンプをピアノに繋いだ。鍵盤はすすでちょっと汚れてた。
弾くといっても、全く下手で、歌のメロディとったり、コードをおさえたりする程度。
21歳位の時にジャズの先生に少し習ってた。
家の中も結構シンプルに効率的に整い、ニュースもSNSもあまり見なくなって、無駄な社交もあまりしなくなると、自分の中に在る物の整理が始まるというか。
キューバの事もある程度消化されたら、やっぱりジャズのスタンダードが浮き上がる。
曲と一緒に、思い出が浮き上がる。
歌で食べて行く事を選ばなかったわたし。
出来なかったのか?
うん、出来なかった。
歌の為に、媚びたり、うまく立ち回ったり、歌いたくない歌うたったり、人に評価されたり。そういうのがどうしても出来なかった。嫌だった。
あと、やっぱり、歌(詩)に対して出来るだけ誠実でありたいという、こだわりの様なものが強くて、ね。
今のこぢんまり、人に媚びず、迎合せず、あまりうまく立ち回らない、やりたくない事は出来るだけやらずな、自分の生き方を考えると、これで良かったし、こうなるしかなかったな、と思う。
もともと持っている、ような、気質は、変わらないんだなと。
媚びずに、迎合せずに、飼いならされない野ブタのように暮らす私。今の暮らしはとても気に入っているし、私らしく暮らせて幸せだと感じる。
音楽では、たくさんの夢や憧れを叶えてきた。
でも、夢や憧れがかなった時、それは「現実」になるの。
で、夢や憧れを商品に出来なかった。誰かの期待に応える事も出来なかった。そういうのが出来なかった。その狭間で、まぁ、苦しんだし悩みはしたよ。
私のアメリカ音楽での恩人は3人の黒人ミュージシャン。
彼らは私が歌手として「成功」するようにと、願ってくれてたと思う。彼らのいう「成功」とは、それで食べて行けるという事だったのだと思う。
1人は1920年生まれのベーシスト。
あとの2人は、1932年生まれ。
公民権運動以前の人たち。
私は「好き」で、夢と憧れで、音楽を売らなくても何かしらの仕事で食べて行ける。そんな日本の子。
俗にいうハングリーさとかが、無いんだよ。
何の為に音楽をしていたかというと、自分の心が死んでしまわないため。
家族とかから変な変わった、迷惑な子的に困ったものとして扱われてたし、小学校では虐められてボロボロだった。自分の中でキラッと光っていたものがアメリカと音楽だった。
でも、まぁ、中流な家庭で、別に社会的に「差別」されて不利なわけでもなく、お客様に歌を聴いてもらわなくても、歌を売らなくても、歌という私の「魂」を売らなくても、暮らせる方法が他にあるから、売り込む事とかやらなかったんだと思う。
私の中の一番大事なものを売れなかったし、お金の為に調子よく媚びたり、迎合したり出来なかった。
キューバで、観光客相手に演奏をしている友人たちが多かったでしょ。彼らは、演奏の後にお客さんからチップをもらうために、籠や帽子をもって席を回る。私はそれがどうして辛くて。彼らは辛いと思ってなかったかもだけど、私には辛かったの。
でも、彼らは「生活」の為に演奏してる。わたしとは違うんだ。と。
そんな、私が、歌を歌ってお金を稼ぐ、お金を頂く事を生業に出来るかというと、無理でしょ。
生活の為に演奏をしていても、音楽の中には確実にJOY「喜び」があって、その喜びを知らない人は食べてもいけない。
豊かな国で、そこそこ経済的に恵まれた家で育った私の贅沢な悩みだったと思う。
それとさ、わたし、ニセモノの音楽は不快極まりないんだ(笑)。
本物や、本質が無い音楽は、我慢ならないんだ。だから、日本でジャズ聴かないし、やらない。関わりたくない。←多くの人に物語や本質が無いんだ。全部じゃないよ。多くの人ね。
・・・というのも、スピリチュアル系の本質のないキラキラ見せるアホどもに我慢がならない、というのと、同じだな、と。
でもね、本当にすごいいい演奏聴くと、見ると、もうヤバい。グレイディテイトというドラマー(←この人マジですごい人だからね)が、私をとても可愛がってくれたのは、私がそういう耳と感性を持っていた「無邪気」な子だったからだと思う。
その感性と無邪気さが、音楽やミュージシャンと関わる中で私にたくさんの宝物をくれた。
私にとっての音楽の中に光る素敵なもの。
それは、多くの場合作られたものではなく、その人が持っている本質的なものや、その人が歩んできた人生にどう正直に向き合い、それを音に出しているのか。
飾り立てた音やテクニックではないんだ。
ギリギリの人生を歩んできた人とかの音とかすごく魅力的だったりする。
プロデューサーたちは、そういう魅力をちゃんと見抜けるんだと思う。
だけど、そういう人たちが「人気商品」になった時、人生がボロボロになったりする。なんだろうね。家族との関係が根深い人多いと思う。
そうやって作られた音楽と歌手という「商品」に私たちは夢や希望を貰う。
実は、商品としての利用価値が無い才能がたいしてない人の方が幸せだったりするのかもとか思う。
私の中でどうしてあんなに音楽キラッと光っていて、歌の歌詞がキラキラしていたか。私は真っ暗な中に居たんだと思う。
だから、私は「結構不幸で良かった」「心が苦しくてよかった」と思う事がしばしばある。
妙にキラキラさせたり、よく見せようとしたりって、音でも人でも気持ちが悪いんだ。私はね。