最近というか、去年位から、わたし、もう、死ぬんじゃないか、とか、ときどき思う。
いや、こういう事いう人ほどなかなか死なないで長生きするんけどね。
去年くらいに、な~んか体調が悪くて、そういう事を考えてたでしょ。バカみたいだけど、そういう事を考えてたのよ。
「もう死ぬかもしれない」
「そんなに長くないかもしれない」
と、結構まじで考えたら、見える景色が変わった。
昔から、死んだら物質やお金は何も持って行けない。とは、頭では考える。解ったつもりになっていても、次から次に欲が襲ってくる。でも、去年位から、欲が減ったっぽいんだ。
欲が減ると、突き動かす原動力が不足するけど穏やかなんだよ。
結局「欲」がどれ程人を苦しめるんだろうと実感した。
これ、仏教で言う所の煩悩でしょうか。
なーんにもない日々に、幸せを感じる。
もちろん、最低限食べて行けるお金は稼がなくちゃいけない。
だけど、必要だと思う人が必要なものを買ってくれればいい。わたしから買いたいと感じて買ってくれる人たちがある程度いたらいい。それで、無理せず、焦らず生きられるのだったら、とても幸せだと思う。
今住んでる家。昭和40年代のふるーーーーい団地。
この人生で30回以上引越しをした私は、ここが気に入ってる。気に入りすぎてる。←結構気に入った住処というのは過去にもあったが、ここは3本の指に入るな。
仕事のスペースや、倉庫的スペースも十分とれる。3DK。
最近はベランダでの植木が楽しい。この部屋の方角、日の当たり方が好きでたまらない。
団地内を散歩すると、色んな人がガーデニングをやっていて、色んな花や木を楽しめる。
団地の管理で、草刈とか、木の剪定はもちろん、お掃除の人たちも居ていつもとてもきれいなの。大きな団地だから、公園の中を散歩しているような感じでお買い物に行くの。
ボタン一つでお風呂が沸き、追い炊きも出来る。←昔はバランス釜とかだよね。
水もジャージャー出る。←昔は水圧が弱い所とかあったよね。
最近はトイレの網戸自作した(∩´∀`)∩ ←キューバは網戸が無くて辛かった。マジ、辛かった。
家賃・管理費で4万ちょっと。決して贅沢じゃない。どちらかというと、安い。貧乏系。
でも、私たちが子供の頃は、この間取りで家族4人とか5人で住んでた家も多かった。日本人の生活レベルはすんごいあがった。
自分が子供の頃の日本に意識を合わせると、今の私の暮らしはとっても贅沢な暮らしだと、思ってしまう。←幸せを見つけるのがお上手。
嬉しい事に、私が死んだら残る家も車もない。あると困る。面倒だ。もちろん財産もない。
うちにある、最も高価なものはローズオイルのストックかも。←私が死んだ後、冷蔵庫からローズオイルが見つかっても、片付け業者は価値は解らない。遺書に「私のお棺に入れてください」と書いておいた方がいいかもだ。入れて欲しいな。
生きて行くためにはどれくらいのレベルの暮らしが必要なのか。
どんな物をどれくらい所有したらいいのか。
死んだら何も持って行けない。
でも、自分の中に在るものは死んでも持って行くんだと思う。
それは、泥棒が来ても持ってはいけない。←泥棒に入られたという経験を持てるな。つか、若い頃にNYでそういう経験、した。それは、私の中の「経験」として残ってる。
ある程度快適に、心地よく暮らせる物がある程度揃っていたら、それで十分というか、便利で豊かで、心地よ過ぎる。極楽。天国。
そんな風に感じていたら、私もうすぐ死ぬんじゃないかとか。そんなことを考えたりする。
死ぬんじゃないか、と考えていると、「後悔は無いか」と自分に訊く。
頭の中で石原裕次郎の歌が流れる。「わが人生に悔いはない」。で、検索してみると、享年52歳だと。私がそろそろ死んでも、おかしくもないわ。←でも死なないけどね。
生きていると、まだ色んな事があるんだろうとは思う。山とか谷とか、喜怒哀楽とか、苦しみとか、苦労とか。ないまま、このまま、80歳位まで、あと30年とか、それはそれで退屈かもしれない。そんなのん気な事を言っていても、苦労とか、喜怒とか、苦しみとか、来るときついんだろうなとは思う。
だけど、今は、幸せ。
なーんにもない、幸せ。
まだ来ぬ、見えぬ山を考えても、その山をどう越えるかは、山に入らないと解らない。
いや、3年後に死ぬかもしれない。
それでも、まぁ、いいと思う。
今の所、殆ど思い当たる「悔い」はない。失敗はいっぱいあるよ。だけど、それは「経験」で、悔やむ事ではない。
20歳の頃から、「来世はイタリアに生まれたい」とよく言ってた。
最近、Youtubeでイタリア料理や食材を見ていると、たまらない。じゃぁ、イタリア行けばいいじゃんと思うかもだけど(コロナ終わってから)、そんなに行きたいとは思わない。今生はもう、体が食べ物を十分に楽しめないし、ちょろっとお邪魔して色々は食べた。「イタリア体験」じゃなくて、イタリアで生まれて、暮らしの中で食べたい。食べる事が暮らしというか。お母さんのパスタやトマト料理で、油ギトギトな暮らしがしたい。ファンクションがしっかりしてて、部品の新しい体で堪能したいじゃないですか。
そして、来世は愛する人と一緒に暮らそう。←今生出来なかったしね。で、これも、もう、今生は体きついし、もう一人で大の字で好きな時にお寝て、好きな時に起きたい。←これ、やっぱり最高。それに、やっぱり、若さでアモールした方が美しいし楽しそうじゃん。
で、来世はギターとか特訓しよう。で、歌うのよ。庭とか、家とか、ファミリーギャザリングで。
お母さんが大切なマザコン男になりたい。で、マンマの味が世界一だ!とか思って生きたい。
良くない?そんな人生。
「私はもうそろそろ死ぬかもしれない」
「せいなさん、そんなこと言わないでくださいよ!!」と思う人いるかも。だけど、そういう風に思っていると、自分にとって何が大切なのか、何が不要なのか。そういう事をちゃんと考える。
今の暮らしはとても気に入ってる。
なーんにもない、日々。時々、これでいいのだろうか、と考える。
だけど、また山は来るのだろう。すぐかもしれないし、数年後かもしれない。
山に入ってから考えればいいんじゃん、と、自分に言う。
今のなーんにもない穏やかな日々を堪能しよう。
「死」という最後の一大イベントに向かって、少しでも悔いのないように生きたい。
最後の一大イベントはまだ経験をしてないので、どんな事になるのか、どんな目に遭うのか、どんな迷惑をかけるのか解らない。
そうそう、この辺りは野菜が安くて美味しいの。今日は、クソん事モリモリのホウレンソウパスタを作った。ほうれん草のペーストの中にパスタが居た。ほんと、農家さんに感謝だ。