「よい人」は面倒だ。

Captain Seina

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私は、「よい人」があまり好きじゃない。

いい人な感じの人には少し警戒をするようにしている。

悪い人、おかしな人、解りやすい。「おかしいな」「いやだな」と感じたら関わらなければいいだけ。

面倒なのは「よい人」な感じの人。

私は基本的には性善説。

その人の奥の奥の奥にはとても純粋なものがあると信じてる。私が感情解放のコースにあれだけ真剣に向い合うのは、その信念があるからだと思う。

キューバの友人に「ショーコはいい人だね」と言われると、「私いい人じゃないよ。悪い人でもないと思うけど。良くない所もあるよ」と答えてた。相手は困っていた。

でも、私は自分を「いい人」だとは全く思わないし、「いい人になろう」とか、「いい人と思われよう」とかする気もない。だけど、昔はそうだったと思う。

「いい人」でなければ、誰かの役に立たないのであれば、生まれてきた事、生きている事が「よくない事」というか、迷惑というか。そういう風に思っていた。自己肯定感とか全くなかったのだと思う。

自己肯定感が無いと人生はくそ面倒で、誰かに認めてもらわないと自分の存在、生きている事が不安で仕方がない。

だから、いい人であることや、世の中や誰かの役に立つことをやろうとしていたのだと思う。

自己肯定感が無い。自己否定感が強いという事は、その人にとって、そのままのその人が存在しているという事だけでも罪の意識を感じるというか。だから、「いい人」であり「誰かの役に立つ」という方法で自分の存在価値を持とうとしていたのかもしれない。

私は、そうだったと思う。

いい人になろうと私なりに努力した。頑張った。

世の中や誰かの為になる様な事をしようと頑張った。

社会や誰かに認められるようにも頑張った。

それらは無駄だったのか。無駄じゃなかったと思う。そうやって頑張ってみたから、今の私がある。

そうやって頑張って、やってみて、誰かや社会に称賛されて、いい人と思われて、誰かの役に立てたと感じられて。それを「経験」してみないと気づかない事が色々ある。

結局行きつくところは「自分」であり。ありのままの自分、本当の自分を、自分が受け入れるだけというか。

他人や社会に「いい人」と思われたり、認められても、次は「本当の自分」との間のギャップで苦しむ。私はそうだった。

他人が思っている「いい人」の型の中にはまらない部分、他人の期待には責任はない。だから他人は「期待」出来るんだと思う。いいとか悪いとかじゃなく、「自分」「自分の人生」の責任は自分にしかない。「期待される」事はいい事で、その人は私を「無意味」だと思ってないのだろう。

そうやって、私は、何度も何度も、いい人になろうとしてしまう自分の浅はかさと、愚かさに翻弄されながら、少し少し、色々なものを振り払いながら、今も生きているのかもしれない。

「よい人」の方が、確実に「得」をします。

それは、いい服を着たり、きれいに化粧をしていた方が美しく見えたり、人に不快感を与えたりしないのと似ているように感じます。

ある程度は「エチケット」や「みだしなみ」で、外に出る時には必要な事なのですが、度を過ぎると、騙しというか、嘘というか。

生活がとても苦しいのに、ブランド品の服を着て、バックを持って、靴を履く。どうしてそうするのかというと、よく見られたいとか、本当の自分よりよく見せたいとか、なのかも。

整形の勢いですか?というくらい、化粧で顔が違うと、素顔を人に見せたくないと思うと思いう。きれいに見せた方が、世の中はお得です。だけど原型が解らないほどに化粧でいじるのはどうかと。

もしかしたら、そういう人たちは、素のその人、本当のその人自身が嫌で、何かを隠すためにやっている人もいるのだと思う。

化粧をするなとか、おしゃれをするなと言っているのではない。化粧も、おしゃれも、エチケットや身だしなみで、他人に対しての心遣いでもあると思うの。

「よい人」の化粧や装飾も、他人と関わるうえで、エチケットや身だしなみとしては必要なものだと思うの。でも、自分が苦しくなるほどとか、自分が解らなくなるほどにやる必要があるのか。

「よい人と思われたい」とか、「よく見られたい」とか、「認められたい」「得をしたい」「徳を積みたい」「よい人になりたい」とかがあるんだと思うの。

世の中に聖人のような人はごくまれだと思う。

精神力がとても強いのであれば、「よい人」をやり切れるのだと思う。

私には無い。だから自分のバランスを崩した。

近年は、殆ど、よい人じゃない。

エチケットとモラルを持って気を付けてるけど、無理はしないようにしている。

精神力や忍耐力がそれほど強くないので、社交も減らした。

珍竹林のママが、私の事が好きだという。ずっと言っている。奇特な人だ。と思っていた。

ママ曰く、私が嫌なことは嫌だ、出来ない事、やりたくない事は、やらない、と言うから楽だという。

私が「ありのまま」だという。

私は、よい人でも悪い人でもない。

私は自分勝手だと思うし、強い人間じゃないと思う。

だけど、意図的に、人を利用したり、貶めたり、自分をよく見せようとかの無理は殆どしないと思う。

ママは色んないろんな人たちに出会い、いろんな経験をして来たのだと思う。不愛想に自分勝手で、嘘が少ない私には、妙な詮索や警戒をしないでいいから楽なのかもしれない。

私のような生き方は、損も多いと思う。

私が若い頃、親や大人たちは私が社会で「損」をしないように少しでも生きやすくなるようにと色んな事を教えてくれた。でも、私は下手だった。

でも、それは目先の事で、長い目で見たら自分の「こころ」にとっては得だったのかもしれない。

生きていて一番苦しい事は、自分が自分を嫌いな事だと思う。

自己否定感。

それはありのままの自分を受け入れられないという事。

ボロくさくて、自分勝手で、案外不愛想で、あまり社交的じゃない私。そんな私を、私は結構好きだったりする。

そんな私を安心して「好き」だと思えるようになったのは、ママのゆるぎない「ショーコが好き」のお陰かもしれない。

頑張っている「よい人」はやっかいである。

ある日突然、我慢が爆発したり、隙間からどろっとエゴが見えたりする。

「あなたの為に我慢をして来たか」という感じの事を何度か人から言われました。

「じゃぁ、付き合うな」なんです。

我慢をするほど自分のエゴを抑えてまで私と付き合う必要はないんです。

自分の気持ちをもっと大切にしてください。それが他人を大切にする最初のステップだと思うんです。

色々な我慢や、抑圧で、心が歪んでいて、その人がその人の感情のままに自分勝手に振舞っていたら、それは他人にとってかなり不快であり、迷惑になるとは思うのです。だから、エチケットと身だしなみ、モラルで「よい人」でなくてはいけないというか、そうあった方がいいので少しは頑張った方がいいですが、心の中の縺れや歪がある程度解消されると、「よい人」であることにそれほど頑張らなくてもよくなる気がしています。

心に、歪や縺れがあると、自分もしんどいし、周りもしんどいです。

誰の為に「よい人」になりたいのか。

結局は自分の為なのだと思う。

好かれたい、得をしたい、嫌われたくない、よりよい人間になりたい。

相手に不快感を与えたくない、というのは、エチケットやモラルで常識の範囲だと思う。でも、それで自分が苦しくなるのだったら、人付き合いを減らした方がいい。

嫌われる事、孤立する事、そんな「恐怖」が無くなったら、「よい人」になる為に頑張りすぎないのかもしれない。